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浄土寺(松山)
愛媛県松山市鷹子
正式名称--西林山三蔵院浄土寺
本尊--釈迦如来
四国八十八ヶ所霊場・第49番札所
                                                       2015.10.17参詣

 松山市中心部から東南方、松山の私鉄・伊予鉄道横河原線・久米駅の東約400m、牛峰山山麓に鎮座する。
 久米駅の北側、鉄道線とほぼ平行する国道40号線(小松街道)を東へ、久米八幡神社前の次の信号を左折(北へ)、小道の突きあたり仁王門(山門)がみえる。

※縁起
 境内(仁王門を入った左・石段下)に掲げる案内(松山市教育委員会)によれば、
  「四国八十八ヶ所の49番札所である。西林山三蔵院と号し、本尊は釈迦如来である。
 寺伝によると、天平年間(729-79)、僧慧明(恵明とも)が創建し、孝謙天皇の勅願所となったという。
 天徳4年(960)、僧空也が諸国遍歴の途中3年ほど滞在し、自刻の木像を残したと伝えられる。
 建久3年(1192)には、源頼朝が伊予の豪族・河野通信ともども家門の繁栄を祈り、堂塔の修理に力を与えている。
 境内に66坊を有する巨刹だったが、応永23年(1416・室町前期)兵火で堂宇をことごとく焼失し、文明16年(1484)に河野通宣が再建して寺の景観は旧に復した。
 その後、室町時代末期の兵火、更にまた、慶長5年(1600)には河野氏の残党が毛利軍とともに久米で戦った“久米の役”によって衰微したが、その後、法印宥雄がこの寺の再建に尽くしたという」

 ネット資料・四国八十八ヶ所霊場会公式HPによれば、
  「縁起によると、天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇の勅願所として、恵明上人により行基菩薩(668-749)が彫像した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。
 のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。
 空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957-61・平安中期)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教して親しまれた。(以下略)
という。

 縁起は、当寺は孝謙天皇(在位749-58・女帝)の勅願所(勅願寺)で、僧慧明(出自経歴等不明)の創建という。
 勅願所(寺)とは、国家鎮護・皇室安泰を天皇自ら祈願するために建立された寺院を指し、飛鳥時代の大安寺を嚆矢として奈良時代の東大寺・薬師寺など、平安時代の東寺・西大寺などの著名な大寺、あるいは全国に建立されたという国分寺などがそれにあたる。
 当寺が孝謙天皇の勅願寺だとすれば東大寺建立の少し後となるが(孝謙女帝は聖武天皇の皇女で東大寺はこの女帝の御世)、この時代に遠い一地方の寺を勅願所として建立したというのは疑問。
 ただ平安後期以降には、既存の寺院でもその権威を高めるために勅願所と名乗ることを願い出、許されたといわれ、当寺もその一寺かもしれないが、それを証する史料はない。

 今、当寺は真言宗豊山派(総本山・京都・長谷寺)に属し、本尊は釈迦如来というが非公開のため、その像形・製作年代などは不明(調査等もなされていない)
 ただ、厨子前に坐す“お前立ち”が釈迦如来座像であることから、本尊も釈迦如来像であるのは確かと思われる。

 本尊を釈迦如来とする寺院は法相宗に多いというが、釈迦如来は真言宗でも本来の本尊・大日如来の化現とされることから、真言宗に属する当寺の本尊としてもおかしくはない。
 ただ、公式HPが行基菩薩(668--749・奈良前期)作というのは疑問で、古い寺院建立あるいは彫像を行基に仮託して語る伝承の一つであろう。

 ただ、これらの縁起を証する史料はなく、ご住職は「古い記録は消失して残っていないので、縁起の真偽は不明」といわれ、五来重氏は、
 ・四国遍路のお寺の縁起は、孝謙天皇・称徳天皇・元明天皇と、はるか奈良時代まで遡ります。縁起つくりの名人がいて、諸国を巡りながらお寺の需要にこたえて縁起を作ったという話を聞いたことがありますが、縁起とはそういうものかもしれません。
 ・孝謙天皇の勅願で行基菩薩が造ったという縁起は信用がおけませんが、鎌倉時代に再興されたことは事実です
という(四国遍路の寺・1996)

 当寺を再興したという河野家とは、古代伊予の国司・越智家の流れをひく在地豪族で、源平合戦の際、河野水軍を率いて源氏に味方し戦功が多大であったことから源頼朝から伊予半国を与えられたというから(壇ノ浦の戦いに熊野海軍とともに多数の兵船を出している)、当寺の再興に関与したことは有りうることといえる(鎌倉前期の承久の変・1221で後鳥羽上皇方に荷担して敗れ、本家は没落している)
 なお、この没落した河野家から念仏踊で有名な時宗の祖・一遍が出ている。

 当寺は真言宗に属し、縁起は“弘法大師が当寺に滞在したことから真言宗に改宗した”という。
 大師は若い頃四国の各地で修行した(延暦10年-791から同16年-797の間という)のは史実とされるが、その頃のことを書かれた三教指帰(大師自叙伝的な書)には、伊予では石鎚山で修行したとはあるものの当寺のことはみえないという。
 ただ、高野山・金剛峯寺の公式HPには、
  「大師は若い頃、阿波の大瀧嶽や土佐の室戸崎で修行され、その因縁で42歳の時(弘仁11年・820)、阿波・土佐・伊予・讃岐の四カ国を遍歴し、各地でいろいろな奇蹟・霊験を残され、寺や堂を建立し、四国八十八ヶ所の霊場を開かれた」
とある。
 しかし、弘仁11年は大師が高野山に金剛峯寺などの伽藍を建立している最中であり(弘仁6年勅許を得、同10年建立着手という)、根本道場建立という多忙の中、四国に帰国して巡錫したとは考えられないという(愛媛県史・1985)
 弘仁12年、勅命によって讃岐(香川県)・満農池の改修を指導しているから、それにかこつけて、その前年から四国を巡錫したとの伝承が作られたのであろう。

 因みに、四国八十八ヶ所遍路は大師が始めたというが、五来重氏は
  「四国の遍路は古くからの辺路修行から始まっている、というのが今日の常識でしょう。そうすると、辺路は弘法大師以前からのものですから、四国遍路は弘法大師が始められたというのは疑問てす」
として、四国遍路は大師以前からあった修行形態で、弘法大師開設というのは疑問だとし(ただ、札所の幾つかが大師若年時の修行の場というのは確かという)
  「弘法大師信仰の対象になる弘法大師は、実在された一人の人間としての弘法大師空海とは違います」(前掲書)
として、四国遍路大師開設説は各地に残る大師伝承の一つという。
 なお、四国霊場が現在の88ヶ所にほぼ固定されたのは室町時代末期といわれ、それ以前は数・場所ともに流動的だったともいう(愛媛県史)

 当寺は真言宗に属し釈迦如来を本尊とするのに、寺号を浄土寺と称す理由は不明。
 ご住職も「浄土寺と称する由縁は不明」というが、当寺に念仏を唱え歩いた空也上人の立像があり、隣接する日尾八幡神社との間の地が空也谷と呼ばれていることなどから(下記)、五来重氏は
  「私は、空也谷の空也堂に祀っていた阿弥陀さんを、三蔵院あるいは三蔵寺と呼ばれた日尾八幡の別当寺に移して浄土寺という名前に変えたと思っています。
 そう考えないと、お釈迦様を祀ったお寺を浄土寺というのはおかしいわけです」
として、阿弥陀如来の極楽浄土信仰が盛んになったことからの改名ではないかという。
 因みに、当寺本堂の左に、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂があり、当寺に阿弥陀信仰が入ったことを証しているが、憶測すれば、当地の豪族・河野氏の当寺への関与などから、当寺の原姿は鎌倉時代の阿弥陀信仰によるもので、それ以前の伝承は後世の付会かとも思われる。

◎木像空也上人立像(国指定重要文化財)
 当寺本堂の右手に“木像空也上人立像”一躰(高122,4cm・寄木像)があるというが、非公開のため実見不能。

 境内に立つ案内には、
  「空也上人は、20歳のころ出家、諸国を遍歴、各地で井戸や池・橋の工事をして『市の聖』と尊び信じられた。念仏踊を始めたことは有名である。巡錫中3年ほどこの地に滞在した上人が自刻の木像を残したと伝えられる。
 一切衆生の苦悩を背負う老境の姿で、深い刀法で写実性にあふれ、鎌倉時代の肖像彫刻の代表である。京都の六波羅密寺に同じ形の像(康勝柞)が所蔵されている」
とあり、納経所内にその写真が掲示されている(下写真)

 その全体像は京都・六波羅密寺が所蔵する空也上人像(鎌倉時代)と似通っているが、全体の印象は六波羅密寺のそれより老体であり、特に顔の表情は歳とっている。

 縁起・案内にいう空也(903?--972・平安中期)自刻の木像がこれだろうが、それが六波羅密寺の空也像と似ていること、六波羅密寺の空也像が仏師・運慶(?-1224・平安末~鎌倉初期)の四男・康勝の作とされることから、それに類似する当寺の空也像も案内がいうように鎌倉時代の作というのが妥当であろう(室町初期ともいう)

 
空也上人・立像
 同左・頭部拡大
(納経所掲示の写真転写)
 
参考
六波羅密寺所蔵
空也上人像

 縁起は、“空也上人が天徳年間に当寺に滞在し云々”という。
 空也の伝記・空也誄(クウヤルイ、空也歿後あまり期間をおかずに書かれたという)に「少壮之日 歴五畿七道 遊名山霊窟・・・」とあることから南海道(七道の一・四国)を遍歴したとは思われるが、その際に当寺に滞在したかどうかは確認できない(作られた伝承であろう)

 これにに関連して、五来重氏は
 「浄土寺には空也上人がしばらく留まっていたという伝承があり、当寺の西にある日尾八幡神社との間は空也谷(今はミカン畑)と呼ばれています。
 本堂には室町時代初期ぐらいの空也上人像があります。

 こういう伝承があるところは空也聖が居たところで、空也聖は念仏を唱えながら諸国を歩いて空也上人と殆ど同じことをしています。
 やがて空也聖は遊行を止めて定住するようになると、そこに葬式を執り行う村ができ、そこには空也の墓あるいは空也堂と称するものができ(空也の墓は8~9ヶ所ある)、村の人たちは本当に空也がそこに埋まっていると思って拝んでいたようです。
 空也聖たちは多少差別されたので、精神的な拠り所として空也の墓あるいは空也谷や空也堂を建てていたと解釈しても間違いありません」(前掲書・大意)
として、当地に居たのは空也の流れをひく聖たちであって、空也自身が滞在したことに疑問を呈している。

空也谷の一部か

 なお右上の写真は、日尾八幡から浄土寺へ至る小路から南方をみた風景で(左手森の右端が浄土寺)、狭い斜面一帯がミカン樹を含む畑地になっている。
 空也谷とは、ここから北方に続く緩やかな低山地一帯を指すと思われ、浄土寺境内西北のはずれに“⇒史跡 空也谷”との標識が立っている。

※堂舎等
 国道40号線・久米八幡神社前の次の信号を北へ、民家に挟まれた参道突きあたり、数段の石段の上に仁王門が南面して建つ。
 仁王門を入り石段20段ほど上がった正面基壇上に堂々たる本堂(室町時代、国指定重要文化財)が南面して建つが、扉が閉められていて内陣内へ入ることはできない。
 扉の格子窓から覗くと、正面に本尊を安置する厨子があるが、本尊は非公開。
 厨子の前に“お前立ち”の脇侍仏を従えた釈迦如来座像が見えるが、普通の内陣構成で特記するものはみえない。

 
浄土寺・参道
 
同・仁王門 

浄土寺・本堂 
 
同・内陣厨子
 
同・お前立ち像

◎落書
 本堂の厨子には室町時代頃の巡礼者が残した落書きがあるという。
 今、本堂には入れないため実見はできないが、五来氏の前掲書によれば
 ・金剛峯寺谷上惣識善空 大永八年五月四日
 ・金剛峯寺満□□同行六人 大永八年五月九日
 ・享保四年七月廿三日 筆 覚円・連蔵・空重・泉重
 ・四国辺路同行四人川内□津在□覚円廿二歳
 ・三川(三河)同行□□遍路大永五年二月十九日
 ・四国中辺路□善冊□辺路同行五人のうち阿刕(阿波)名東住人□大永七年七月六日 なむ大師辺照金剛
などがあるという。(大永年間:1521--28・室町後期)

◎境内塔頭
 本堂の左に阿弥陀堂が南面して建ち、その左に愛染堂が東面して建つ。
 阿弥陀堂に掲げる扁額には“無量壽”とあるが、これは“無限の寿命をもつもの”を意味する梵語・アミターユスを“無量壽”と漢訳したもので、阿弥陀如来を指す。


阿弥陀堂 

同・内陣 
 
同・扁額
 
愛染堂
 
同・内陣
 
同・扁額

 本堂右に大師堂が南面して建ち、その前に弘法大師石像が立つ。四国遍路の札所には、大師との関係の有無にかかわらず大師堂が建てられており、この大師堂もその一つであろう。


大師堂
 
同・内陣
 
弘法大師像

 上記以外に、境内に入って右に鐘楼と仏促石が、仁王門右手の手水場の背後に弁財天堂があり、境内入って左に正岡子規(1867--1902)
  「霜月や 空也は 骨に生きにけり」
との句碑が立ち、傍らの案内には
  「明治29年12月3日刊の雑誌・太陽に載った冬の句で、寒山落木・巻5にある。
 “骨に生きる”とは、“空也の肉体は白骨となっても、人々の胸には念仏の教えが今も生きている”の意。
 句碑の文字は、前高野山管長森寛紹大僧正の筆で、“白象”と号した」
とある。
 なお境内の右手に、森白象(1899-1994)の「お遍路や 杖を大師と たのみつゝ」との句碑が立っている。


鐘 楼 
 
仏足石

弁財天堂 
 
正岡子規・句碑

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